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ダヴィンチはその人生で結婚をせず、子供も残さなかった、告発文から同性愛者説があったりする。
ダヴィンチの同性愛的な行動は若いころにすでに登場している。
1476:24才の時同性愛の嫌疑で裁判にかけられる
匿名の告発:
ヴェロッキオのもとにすむレオナルドダヴィンチが、少年と男色行為をした!
という告発文が残っている。
ただし、当時の告発文はライバルなどを批判するような目的があってなされることも多かったと言われており、どこまで本当なのかはよくわからない。ネタとして書かれる程度には疑惑があったとみることはできる。
美少年だったジャン・ジャコモ・カプロッティは長くダヴィンチの弟子だったことで有名で、同性愛の関係にあったとも推測されている。サライという愛称が与えられたが、これは悪魔という意味。
1490:カプロッティを弟子にとる。
この後:25年以上は同居していた。この間にサライのいたずらや狼藉などを細かく手記の中に記録している。
16世紀初頭:洗礼者ヨハネなどのモデルとしてカプロッティを起用。
1500年代はじめ:弟子にメルツィをとる。最大の愛弟子で、親友でもあったといわれる。養子でもあった。
1519:死去、残されたスケッチはメルツィが管理した
その後:メルツィの死去とともにスケッチは離散する。
女性との仲も、記録には残っているが、男性の弟子ほどにはあまり取りざたされていない感はある。
母親カテリーナとは、私生児だったため生後すぐわかれたが、そのまま生き別れではなかったらしい。成人して後、再び交流があったことが手記からわかっている。
生後すぐ:母親との別れ
1494年1月29日:カテリーナに10ソルディを渡す。・・・手記にこのメモが残されており、この時期、母親の生活費の世話をしていたらしい
1490年代末:カテリーナ死去・・・手記には葬式にかかった費用などが記録されている。
フィレンツェの君主の城にいたチェチリアは、彼が唯一、恋心に近いものをもった女性ともいわれる。ただし、とくに発展しないまま離れ離れになった。
1482:フィレンツェへ移住する。チェチリア・ガッレラーニとの出会い。のちに、友情が芽生える。
1491:チェチリアとのわかれ。チェチリアは地方の侯爵と結婚する。
・なおカプロッティはメルツィに対する嫉妬が原因かレオナルドの元を去るが、彼が所有した土地で画家の活動自体は続けた。
・同性愛説の真相
これは状況証拠から見てある程度、信憑性はあると考えられる。チェチリアとの仲は発展しなかった。と同時に、男性の弟子とはかなり仲が良好だったことがうかがえる。