方程式の解の公式はどのように発見されていったのかの年表。1次方程式、2次方程式の解の公式は古代から知られていたが、3次方程式までに実に3000年近い時間の開きがある。なお、本文中に示した解の公式は、未知数にに記号がついていない場合のものである。
3次以降の解の公式にかかわった人は、みな不幸な死に方をしているのが何とも不気味である。
年表
1次方程式の解の公式
1次方程式にも一応、解の公式ともいえるものはある。
紀元前1700年ごろ:アーメス・パピルス、1次方程式の解の公式が残されている。おそらく数学に関心のある書記官が記したものと思われる。
2次方程式の解の公式
紀元前1600年代:バビロニアの文書に2次方程式の解の公式が示されている。こちらもおそらく数学に関心のある書記官が記したものと思われる。
古代インド:負の数を入れることで2次方程式を簡略化。負の数の概念によって、わざわざ場合分けして書かなくても記述できることが示された。
3次方程式の解の公式
3次方程式は、明確に誰が発見者か判明している。もっとも、いざこざがあった。
1540代:フォンタナ、3次方程式の解の公式を見つける。これを秘密にするという約束でカルダーノに教えた。
1545:カルダーノ、「アルス・マグナ」で発表。 このため、カルダーノの公式として知られる。
直後:フォンタナは激怒。なお、カルダーノは自分の占星術の予言どおりに死ぬため、予言された日に自殺したと言われている。
4次方程式の解の公式
4次方程式も、明確に誰が発見者か判明している。
16世紀:カルダーノの弟子フェラーリ、4次方程式の解の公式を見つける。
5次方程式の解の公式が存在しないことの証明
5次方程式については、解の公式が一般には存在しないことで決着がついた。
1820:アーベル、一般的な5次方程式の解の公式はないことを証明。
1829:アーベル、病で若くして死去。
1830年代:ガロア、解の公式が作れる場合とそうでない場合の条件を確定する。5次方程式に関する厳密な考え方を整備した。
1832:ガロア、決闘で若くして死去。
豆知識
・現代数学に大きな貢献をしたアーベルだったが、教員に任命される手紙の届く二日前に亡くなった。
・ガロアの最後の言葉は、駆け付けた弟がなくのを見て「なくな、20歳で死ぬということはありったけの勇気が必要なのだから」であったらしい。
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考察
・不幸が続いたのは偶然か?
これは偶然と呼ぶほかないが、社旗情勢も一枚かんでいるのかもしれない。病気が治るようになるには時間がかかり、また、フランスの不安定な革命期の情勢による不幸、と呼ぶことができないでもない。
・虚数の発展
方程式の解の公式を見つける過程で、どうしても導入が必要だったのが虚数の概念である。これは相当受け入れがたかったようだが、方程式の探求が虚数の理解に貢献したことは言うまでもない。
虚数は2次方程式の解としても出てくるが、この時は「答えとしてあり得ないので、考えなくてよい」、という解釈が主流だったようである。