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サイクロトロンは原爆研究?戦後の破壊事件を詳しく解説!

戦前、日本でもサイクロトロンを使って加速器の研究、原始スケールの研究が進められていた。しかし、終戦時、原子爆弾製造に使われるという理由から占領軍によって破壊された。この顛末を年表で解説する。

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占領軍による破壊

理化学研究所(理研)の仁科芳雄が研究していたサイクロトロンの破壊がもっとも有名である。

理化学研究所のサイクロトロン破壊

連合軍は戦後、自分の国でつかえるものは押収し、かつ、日本の科学を再起不能にする、という方針があった。

1945年9月:調査団が仁科研究室を訪れ、トルーマンに報告書をかく。そこでは日本の原爆は東京大空襲で中断していること、ドイツより閑静に近づいていたことが述べられている。

仁科は平和利用に使いたかった。と釈明し、マッカーサーに使用許可を求めた。調査団はマッカーサーに勧告をするといった。

10月:仁科、マッカーサーあてに手紙を書く。調査団とおなじく平和利用するといった内容。

直後には、生物学などには使ってよいが冶金学にはだめといった許可が届く。これは後者が戦争に使われると判断されたからである。

11月:前言が撤回され、全面使用禁止。24日に破壊され、東京湾に投棄された。

この時期には、アイゼンハワーが、極秘にサイクロトロンをアメリカに運べないかという電報を打ったりしている。

占領軍でも方針の行き違いが合ったことが伺える。

京都大学のサイクロトロン破壊

占領軍のトマススミスは、終戦直後に通訳として京都大学のサイクロトロン破壊を通達した。

荒勝文策の研究室でサイクロトロンを押収すると、荒勝は涙を流したという。これは戦争とは関係ないと訴えても、スミスには権限がないのでどうにもできなかった。

これには後日談があり、しばらく後にふたたび訪れ無礼を詫びると、荒勝は「いいんだ。弟子の湯川秀樹がノーベル賞をとったので、われわれは報われた」といったという。

アメリカの科学者による支援

アメリカの科学者はこれらの破壊行為を蛮行とみなし、反抗をした。

調査団のスタッフはニューヨークタイムズに抗議文を発表した。

1951年にはローレンスが来日し、サイクロトロン再建の援助をしている。

科学者たちはむしろ「日本の国立研究所はすべて潰す」という方針から日本の研究所を守った。

なぜサイクロトロン=原爆?

軍人は武装解除が主目的であり、戦中は、日本で原子爆弾や殺人光線などが完成しているという可能性におびえていた。なおかつ科学的な知識を持たないため、原子力研究がいっしょくたに原爆研究などとつながって見えた。ゆえに本来は原爆製造に使われなくともサイクロトロン破壊が通達された。

また、実際に日本の現地にいる駐在の人員と、ワシントンにいる軍の幹部ではさらに認識に違いがあり、現地の人員が日本の科学者から説明や説得を受けて納得しても、ワシントンのほうへは伝わりにくい、理解されにくいという事情もあった。

これらの理由から、サイクロトロンは破壊された。

科学者はむしろ好意的であり、側面支援をしている。このように、軍人と研究者の間には温度差があったことがわかる。

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