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物理学者はしばしば、物理学を前進させるためのアイディアに対して苦言を述べることがある。その代表的なものを年表形式でまとめた。他の物理学者の発見への苦言のほか、過去の自分に対するものもある。
20世紀:シュレーディンガー、行列力学について
嫌悪感でなければ、不快感を抱く
20世紀:ハイゼンベルク、波動力学について
それについて考えれば考えるほど、より不快に思える
アインシュタイン、確率解釈について
神はサイコロを振らないのだ
アインシュタイン
湯川、クオークについて
電荷が1/3とか、そんなものがあるはずない
過去の自分のアイディアにたいするもの(苦言とまでは言えないものも・・・)
20世紀:プランク、量子仮説について
量子仮説は大バクチであった
プランク
20世紀:アインシュタイン、宇宙定数について
私の人生で最大の過ちだった
アインシュタイン
20世紀半ば:ハーン、原爆について
自分の研究の潜在力をしったあと、自殺を考えた
ハーン
20世紀:ファインマン、自身が貢献した繰り込み理論について
あれはけっこうイカレタ方法だよ
ファインマン
・ニュートンはほかの人のアイディアに苦言を呈することこそあまりなかったものの、ライバルだったロバートフックの肖像がを燃やしてしまったとされる。
・シュレーディンガーとハイゼンベルク
たがいに嫌悪感をぶつけ合っており、中はそれほどよくなかったのではないかと予測される。シュレーディンガーはのちに「シュレーディンガーの猫」のパラドックスを提示して量子力学に挑戦したり、自分は量子力学へ貢献したことを公開していると語るなど、一定の距離を取るようになっている。この理由の背景には、ハイゼンベルクからの冷遇みたいなこともあったのかもしれない。
・アインシュタインとボーア
こちらは何度も意見をぶつけ合いながらも、人格的な不快感などには発展していない点が確認できる。ボーアの邸宅で議論を交わす様子がシュア芯に残っている。むしろ、アインシュタインからの挑戦をボーアが楽しんでいるような不死さえ感じるのは気のせいだろうか?
・なぜ物理ではこうなりがちなのか?
物理学者は自分の美学みたいなものを持ちながら、理論を深めていくことが多い。このことで、美学に合わないアイディアを排斥したくなる傾向があるものと思われる。
ただし物理学においては実験、観測というアイディアの正しさを確かめるための方法論が用意されているので、結局は結果がすべてである。実験結果に合うかがすべて、とはファインマンも言っている。「All you need is result」といったかはわからないが。