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フロギストン説の起こりからカロリック説の否定まで比較しながら書きます。
フロギストン説: 燃焼と酸化・還元を以下のように説明する理論 燃焼:可燃物→灰+フロギストン 酸化:金属→金属灰+フロギストン 還元:金属灰+フロギストン→金属 問題点 ・フロギストンが負の質量をもっていると仮定しないと、燃焼後の質量増加が説明できない |
カロリック説: 燃焼と酸化・還元を以下のように説明する理論。酸素はカロリックと結びついている。 燃焼:可燃物+酸素(カロリック含む)→灰+カロリック(熱と光となって流出) 酸化:金属+酸素 (カロリック含む) →金属灰 還元:金属灰→金属+酸素 (カロリック含む) 問題点 ・重さがないので物質とは認められない ・摩擦によって無限に出てくることになってしまう |
フロギストン説はかなり長いこと燃焼理論の主流だった。変わってカロリックは、ラヴォアジェが唱えたことで有名なものの、それほど歴史は長くない。
フロギストン説は錬金術の燃焼理論あたりから起こり、 燃焼のための物質があるという仮定がきっかけだったようである。カロリック説は新元素発見の流れを受けて仮定された感が強く、当時の新元素発見・単離ブームの勢いを感じさせる。
17世紀半ばにベッヒャーが、燃焼の時出てくるものを「原質」として定義した。これがフロギストンの起こりである。17世紀後半に、シュタール、燃焼で出る原質を「フロギストン」と命名。名前がついたのはこの時である。1684にはシュタールが「化学原論」刊行、フロギストン説の説明をひろめた。18世紀ころには、フロギストンはマイナスの質量をもっていないといけないと認識され始める。
同じ18世紀後半にはラヴォアジェが精密な燃焼の実験を開始している。
1770代にはシェーレ、酸素の発見。1774年プリーストリー、酸素の発見を公表と、相次いで燃焼に関する気体が見つかった。
しかしながら1789ころアイルランドのカーワン「フロギストンの酸の成り立ち」発行する。否定される直前のフロギストン説の本であった。
同じころには、ラヴォアジェも酸素の分離を確認した。
1789には、ラヴォアジェ「化学要論」刊行。フロギストン説は否定される。しかし、カロリックという単体をかわりに考案し、元素に加えている。彼は、カロリックが元の酸素と結合し酸素ガスになると考えた。燃焼すると、酸素が金属とくっつく代わりにカロリックが熱として出てくる、というモデルである。
1798年にはランフォードが、大砲の穴あけ作業ででる熱の実験。カロリックが無限に出てくるはずと指摘した。ここでカロリック説は下火に。
19世紀にはデービー、氷点下で氷を摩擦し、溶けることを確認。この時は、氷点下の温度ではカロリックは存在しないはずだった。19世紀なかばにはジュールが熱や仕事はエネルギーの形であり、交換できると解明。熱は物質ではないと明らかになり、カロリック説完全否定。
燃焼理論の主流として君臨したフロギストンだったが、やがて無理な家庭が認識され、分析技術の進歩によってその価値を失う。しかしながら、その過程で新元素の発見が相次ぎ、近代の化学の下地となった。
・燃焼理論の誕生
燃焼にかかわる何らかの物質があるに違いないというのは、発想としてはそう思っても仕方がないという気はする。ただし、シュタールのモデルだと負の質量をもっていないといけない、という時点で、かなり無理が出てくるのは気づいてもよかったと思われる。
・間違った燃焼理論の残したもの
フロギストンとカロリックは間違いを犯したものの、その100年の間に科学に関する研究の原動力となり、結果として数々の分析方法や機器の発展と、科学の進歩につながったのは明らかである。この点で錬金術と似たような役割を果たしたといえる。
・熱力学へ
歴史的にはこの後、熱力学が勃興してくることになる。ランフォードの実験で否定されたカロリックだが、「熱は何らかの粒子の移動にちがいない」という考え方は比較的、尾を引いたようである。(何かが移動しているととらえるのは発想的にはしかたない。)カルノーも熱に関する考え方として上から下に熱が落ちる、という粒子的なたとえを用いて理論を説明している。
・プリーストリーは酸素を発見したものの、フロギストン説の支持者であった。
・ランフォードはラヴォアジェ亡き後、ラヴォアジェの未亡人と結婚している。(のちに離婚)
・キャヴェンディッシュは水素を発見したが、彼はこの気体こそフロギストンだと勘違いしてしまう。
・フロギストン説は化学を100年遅らせた、とも評される。