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ここでは、青いバラの開発の歴史を解説します。また、花言葉についても本数別で解説します。怖い花言葉があるのかも調査しました。
青いバラの花言葉は、技術の進歩によって花言葉が変わった事例として有名です。
もともとの花言葉は、「不可能」「ありえない」「存在しない」などでした。これは後述しますが、自然界には存在しないこと、幾多の品種改良などによる青いバラ実現の夢がことごとく失敗してきたことに由来するものです。
しかし、21世紀初頭に遺伝子改良により青いバラが実現されたことで、現在では以下のようなポジティブな意味になっています。
2本の時は、「世界に二人だけ」という意味になります。
3本の時は、「愛しています」という意味になります。
このページがかなり詳しいです↓
結論から言うと、このような怖い意味の花言葉は青いバラにはありません。
もっとも、ネガティブな意味の花言葉だったことは先述した通りですが、それは過去の話です。
ではなぜこのような検索がされるかというと、考察できることとしては以下が挙げられます。
現在ではポジティブなイメージになっていますので、これらは気にする必要はなさそうですね。
青いバラの歴史は、伝説の時代から始まります。
この歴史には、あたかも永久機関や錬金術、あるいは飛行機や青色LEDを志向する人たちとの歴史と重なるものがあります。
研究対象としての記述がみられるのはアラブ圏からです。この時代の科学らしく伝説に彩られた青いバラの逸話が存在します。
これは12世紀のアラブ系の研究者イブン・アルアッワームで、青いバラを作ろうとする最初の挑戦がみられます。
白バラにインディゴの粉末を茎から注入する
この方法では花弁に青い色を付けることはできたかもしれませんが、品種とまでは言えません。
18世紀には、種子販売人のジェームズゴードンが青いバラの製法を試みています。
緋色のバラをアンモニアと中性洗剤につける
これは脱色の方面からアプローチしたようですがよくわかりません。
1850年代には、植物に関する科学雑誌などで「青いバラは不可能」という論評や、それに対する反論なども見られるようになります。
決定的にいわくつきの印象を与えたのが、マクレディ家の逸話です。
これは品種改良と販売を生業にしていたマクレディ家でおこった「青いバラ事件」といわれているもので、ある日、サミュエルマクレディ3世が品種改良中のバラの中に青い個体を見つけたところがスタートです。
これを品種改良に使えば青いバラができると意気込んだ3世でしたが、サミュエルマクレディ2世が三世を非難し、焼き払うことになってしまいました。
この逸話から、青いバラが触れてはならないもの、不可能なものというイメージが一気に広まったとされています。
それでも、品種改良は進んでいました。もともと青いバラの祖先ともいわれる「カーディナル・ド・リシュリュー」などから研究を進め、「グレイパール」という青いバラが作られます。
戦後すぐに、世界中で話題になりました。これは今日、青いバラの第一号といわれます。
1957年には、「スターリングシルバー」が登場します。これはラベンダーを利用したもので、香りもとても良いことから歓迎されました。
1964年には、さらに完成度の高い「ブルームーン」が登場し、開発競争に花を添えました。
しかしいずれも、完全な青ではなく、薄い青色やラベンダー色が限界でした。
サントリーフラワーズを中心に遺伝子工学からの研究が始まったのが、1990年代です。
その後、青色色素に必要な酵素の遺伝子をパンジーから単離して遺伝子導入することに成功し、ついに2004年、「ブルーローズ」が完成します。
その後、遺伝子組み換えの法整備により一般にも流通が開始されました。
これで少なくとも遺伝子工学を使えば青いバラは作ることができるということが証明されました。現在でも、よりはっきりとした青色に近づけることが試みられています。
遺伝子工学を使わずに品種改良で青いバラを作る試みも続けられています。(これはあたかも「フェルマーの最終定理」が最新の数学で証明された後もより簡易な証明を求める人がいることに似ている)
子供のころから青いバラの発明発見の歴史は気になっていたので知れてよかったです。