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実は日本には「死ぬまで夢日記を書き続けた人」がいます。その内容と、解説を紹介します。これが夢日記は危険といわれることにつながっているのでしょうか。
死ぬまで夢日記を書き続けた人物とは、日本の鎌倉時代を生きた僧である明恵(みょうえ)という人物です。(なお名前の読み方は「あきえ」ではない。)
明恵は1173年から1232年の鎌倉時代前期を生きた僧侶です。
彼の夢日記は『夢記(ゆめのき)』というタイトルがついています。
この人物は仏教の僧侶である傍ら、夢日記を書き続け、その記録は死ぬその年までおよそ40年間も続きました。
いくつかの記録は高山寺などに分散して残されているほか、国宝のサイトでも見ることができます。
補足ですが、死ぬまで夢日記を書いたというのは夢日記をつけたら健康を害して亡くなったということではありません(後述)。
単に死ぬその年まで執筆が続いていた、という意味です。
また、毎日欠かさずに書いていたというわけではなく、とびとびの日付で書かれていることが多いです。
以下では、夢記の要約と現代語訳を解説していきます。
ここでは、夢記の内容をいくつか抜粋してみましょう。
なお、原文そのままではなく、要約を現代語で書いたものです。(現代語訳引用は『明恵上人夢記訳注』より引用。)
例えば、日付がわかっている中で最初の夢の内容はこうです。
1196年(建久7年)
これを持ちて失わない。
そして、最後の夢の内容はこうです。
1232年1月(寛喜4年)
微妙な宝の塔があるが、灰塵になった。
また、昔見た夢を思い出して後で記録したものも一部あります。
日付が推定されるものの中で最も古いのは、1191年にかかれたもので、これは何と18歳の時です。
ティーンエイジャーのころから夢日記を書き辻けているのはすごいですね。
さてここでお待ちかね、心霊体験のような怖いイメージを伴う夢ももちろん登場します。
1203年
左ひじが落ちた。
これは左ひじが切断されて落ちるという恐怖体験を夢の中でしている例ですね。
1219年
上師が死人の頭を持っている。
これは当たを持っている人が登場するという結構怖い夢です。
中には、歴史の教科書に載るような有名な人物も登場します。
1212年
鎌倉大将の使いが来て東大寺へ行く。
ここでいう鎌倉対象とは、当時の将軍、源実朝のことで、その使いが夢の中にやってきたという内容です。
当時の最高権力者が間接的に夢に出てきているわけですが、いつの時代も有名人であれば露出が多く他人の夢に登場しやすいのかもしれません。
やはり仏教徒であることもあって、仏教に関連するものが夢に登場するケースが非常に多いです。
その日見たものが夢に出やすいとはよく言われます。
そうなると仏教の修業をしている人は、仏教に関連するものが多く出てくるというのは道理ですね。
最後に、明恵が夢日記を書くことで体調不良等の悪影響が出たのかについても調査してみました。
例えば、夢日記を執筆している最中の1202年には病気によってインドにわたるのを断念しているという事実があります。
この時期のことを指して夢日記で体調を崩したとは言いにくいでしょう。
夢日記を書き始めてからすでに10年近くがたっています。
また、その後は特に体調を崩したという記録もありません。
これらのことを踏まえても、死ぬまできちんと生きながらえていることから、夢日記が危険を及ぼしたとは考えにくいです。
本人は夢の内容をどのようにとらえていたのかが非常に気になります。