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ペリー来航は江戸時代の末期に起きた大事件でしたが、複数回、なおかついろいろな場所を巡っていることもあり、何年かわかりにくいです。覚え方も記載しました。将軍の反応や伝わった科学技術も解説します。
ペリーの来航は、最初は1853年(嘉永6年)でした。この前後でいくつかの港に寄港しています。
1852年:琉球(沖縄)に来航
1853:浦賀来航、久里浜から上陸
1854(嘉永6年):浦賀に再び来航
もっとも有名な語呂合わせでは、最初の浦賀来航の1853年について以下のように覚えるものです。
ペリー浦賀に 人は混み
1853
その翌年に来航したということで1854年と自動的に算出できます。
ペリー来航時の将軍は、第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)でした。
しかし、この時家慶は病床に伏せており、前面に出て政務ができる状態ではありませんでした。
この時代わりに交渉などにあたったのは老中であった阿部正弘(まさひろ)です。ペリー来航の時になんとなく将軍の動向が伝わっていないのは、このような病気事情があったことがわかります。
この時、日本語はもちろん、英語も国際コミュニケーションに使う言葉ではありまあせんでした。当時は国際語はオランダ語でした。
このとき、ペリー側も幕府側もオランダ語が分かる通訳は存在したため、この通訳を介してやり取りをしていました。
英語⇔オランダ語⇔日本語
という風にコミュニケーションをしていたということになります。
ペリーの来航により、日本でには存在していなかったテクノロジーがいろいろと伝わりました。基本は模型として持ち込まれました。
電信機はこの時に伝わったものの中で最も先進的なものと言えるでしょう。
これはエンボッシングモールス電信機というもので、電信でつたわったメッセージを針が神の上にモールス符号を打ち付けて一種の印刷をしてくれる、というものです。
これを作ったのはモールスで、1837年に完成されました。
これも模型として伝わった新技術で、実際に円形に組んだレールの上で蒸気機関車を走らせて、見ている人を驚かせた見せたと伝わっています。
ミシシッピ号・サスケハナ号のような、艦の側面に蒸気機関で動く車輪がついているものを「外輪式」といいます。
サスケハナは、日本の発音のよう(佐助+花)でもありますが、これは日本語にちなんだものではなく、ネイティブアメリカンの言葉で「広く深い川」を表す言葉です。
たまたま日本に来航した時の船の名前がに日本語っぽいというのは面白いです。