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大久保利通は、明治維新の時期に活躍した人物ですが、紀尾井坂の変で暗殺されています。この時の暗殺者については、どのような人物だったのかはあまり知られていません。ここでは、大久保利通の暗殺者の写真や墓所、事件の動機などを解説していきます。
大久保利通は、明治の初頭に政治家と相手辣腕を振るいましたが、紀尾井坂の変で暗殺されました。
この時の暗殺者(大久保利光を襲撃した人)は一人ではなく、島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤の6名です。
以下では、主犯の島田一郎について解説していきます。
島田一郎の写真は、以下のものが残されています。
島田一郎は、1848年、加賀藩の足軽の子として生まれました。
成長した後、1864年には長州征伐で初陣を飾っています。
毎時に入った1868年には、北越戦争で活躍しています。これらのことから、軍人としてのキャリアを歩んでいたことがわかります。
島田が不平士族として加わるのは廃藩置県の後くらいからで、中尉にまで昇進したものの帰郷しています。このあたりの時期には不平士族の一派のリーダーとして活動していました。
そして1878年5月14日、紀尾井坂の変で大久保利通を刀で切りつけ暗殺するに至ります。
ちなみにこの時、刀のほかに拳銃も所持していましたが、暗殺には使用していません。
なお、この時の大久保利通には馬車を操縦する御者はいましたが、護衛はいませんでした。そのため、反省を生かしてこの後の要人の移動には護衛がつくという変化が起こっています。
事件後に自首し、7月に死刑宣告、そしてほかの5名とともに斬首刑に処されました。
島田一郎の墓所は東京の谷中霊園にあります。
ここにはほかの実行犯の墓も同じ場所にあり、6本の墓石が並んでいます。
よく見ると、墓石には「島田一良」と書かれていることがわかります。
これには、暗殺者であったことで名前を変えて葬ったという説や、反体制的な人達の聖地にならないようにしたなどの説があります。
島田一郎の辞世の句は、以下が知られています。
あらうれし 花の都につきにけり 屍をさらす 処と思へば
かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき
最初の句ではうれしいという言い方をしていますが、二つ目の句では悲しみを表現しています。
島田一郎などが大久保利通を暗殺した理由はなんだったのでしょうか?
背景としては当時は武士の時代が終わろうとしており、その処遇に不満を持っていたいわゆる不平士族がおおく発生しました。
そして、こういった人々が士族反乱を多く起こす結果となりました。
島田らも、はじめは西南戦争などに乗じて士族反乱を起こそうとしたものの、うまくいかなかったため要人暗殺に切り替えたということが知られています。
自首した時に犯行声明的なものである書状『斬奸状』を持っており、そこには動機と取れることが書かれています。
大久保利通は、この事件の数日前に、事件を予見するかのような不吉な夢を見ており、それがいわゆる正夢の一例として引用されることもあります。
内容としては「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」というものです。
これは知人でのちに官僚などを歴任する前島密に語った内容であり、実際に事件現場に駆け付けた前島は同様の様子を伝えています。
語り方から、口論をしているときあ主観視点だったのが、最後には自分の体を離れた場所の視点から見ていたという風に変わっているということがわかります。この部分も興味深いところです。
大久保利通も不気味な夢が本当になるとは思っていなかったのではないでしょうか。なお、西郷との口論とありますが、西郷隆盛は大久保より先に西南戦争で自害しているので、何かを伝えたかったのでしょうか。