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ユークリッドの原論が出版されて以来の注目の的であった「平行線公準」。これを公準ではなく定理なのではないかと考え、ほかの公準から証明しようとする試みは、数世紀も続いた。しかしながら、別の幾何学が生まれるという意外な結末を迎えた。
ユークリッド幾何学の平行線公準を証明しようとする試みは、19世紀まで続いていた。しかし、誰も成功しなかった。
19世紀初頭には、ルジャンドルが「幾何学の原理」で平行線公準の証明を載せる。しかしこの証明は間違っていた。
同じ時期には、ヴォルフガング・ボヤイが、証明の試みをしている。こちらもうまくいかず、ボヤイは時間を浪費してしまったという後悔が残ったようである。
1824年に、ガウスが、知り合いのタウリヌスへの手紙で非ユークリッド幾何の可能性についてふれる。ガウスは公開を禁じている。
同時期には、シュヴァイカルトという人もその可能性に気づき、「星界幾何学」という名前をつけている。このことはガウスも同じ発想をした人がいたことに驚いたらしい。
1825年には、ヴォルフガング・ボヤイの息子、J・ボヤイ、公理を満たさない幾何学の可能性に気がつく。ただし、父親のほうのボヤイは息子がこの研究をすることには当初あまりいい顔はしなかったようである。
1829年にはロバチェフスキーがこの構築に成功し、「虚の幾何学」という名前をつけている。
1832年には父親のW・ボヤイが、息子の成果についてガウスへの手紙の中で知らせているが、例によって「自分もすでに気づいていた」というガウスに驚かされる。
今日では、非ユークリッド幾何学はJ・ボヤイとロバチェフスキーが同時期に発見・構築した、という風にみなされている。
1854:リーマン、「幾何学の基礎にある仮定について」出版、幾何学の多次元化の可能性について述べている。
1870ころ:クライン、クラインモデルで可視化。このときまでは認められてはいるもののあまりイメージができず、あまり研究も進まなかったが、この可視化のおかげで研究が一気に進んだ。
クラインが考案した、円盤を使って非ユークリッド幾何学を図示する方法。
周縁に近づくにしたがって縮尺が縮んでいくので、端までたどり着くには無限の時間がかかる。
このことで、平行線が一本も引けない世界、複数引ける世界、双方の図示が可能になった。
・ロバチェフスキーは若いころやんちゃだったそうだが、のちに学長にまでなった。
・可視化の大切さ
非ユークリッド幾何学は、そのイメージのしにくさから、発表後もあまり理解されることがなかった。ガウスがいっているのだから正しいに違いないが・・・というようなものだったらしい。しかし、クラインがクラインモデルを図示して視覚的にも存在しうるモデルであることを示し、多くの人に受け入れられてい板。可視化の大切さは数学でも共通であることがうかがえる。