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N線を発見したと主張し、誤った研究の代表例を作ってしまったルネ・ブロンロ。ここでは彼の人物面に着目して解説する。また、ブロンロの名誉のためにも彼の功績についても述べる。また、論争を挑んだウッドの経歴に関しても合わせて述べる。
詳細:N線の歴史-I線って?
1903 :ブロンロ、新syの放射線、N線を発見したと発表。
20世紀初頭にヨーロッパの研究者のあいだでセンセーションを起こし、研究ブームがくる。
しかし、1905年ごろを境に否定派が増していき、最終的には学会からも取り上げられなくなった。否定のキッカケがウッドによる一連の反論実験だった。
ウッドは実際にブロンロの研究室まで行き、その誤りを暴く実験をして見せた。
1.こっそりプリズムをはずす
N線を出しているというプリズムを、別のものにこっそりすり替えた。これでもブロンロはN線の影が見えると言い張った。
2.手を差し入れてその変化をみる
人体からもN線が出ているので、感光板の前に手を差し入れればその瞬間がわかるはずだ、と実験をしたが、手が入れられた瞬間をブロンロは答えられなかった。
3.やすりを近づけたふりをする
N線はしばらく当てると当てられた物体からも出るとされたので、それを近づけるふりをして実際は何ももっていない、別のものをもっているというトリックを繰り返したが、それでもブロンロはN線が見えると言い張った。
4.放射線の元をいどうしたらわかるはず
N線が出ているものを、移動すれば、影の位置がいどうするはずなので分かるはずとしたが、ブロンロは正確に答えられなかった。
ウッドと会ったときは、疲労のため失敗した、という風に言ったらしい。
1904 :このころは、母国語ではないドイツ語で話し合ったので、誤解を受けたのだという弁解をしていた。
1905:この時期には、N線を目視できるようになるには予備訓練が必要なのだという弁解をしている。「凝視するよりぼーっと見る感じの方がよい」みたいなアドバイスをしている。
このころには、大半の研究者が追試でみつけられず、否定論が大半だった。それでも、N線に関する本を出した。このことが、学会での評価を下げてしまった一番の要因とされる。
ブロンロは、N線発見の騒動までは極めて名声ある研究者の一人であった。同時期の研究者の一人が、「エックス線の発見はブロンロがしていてもおかしくない」というコメントを残しているほど、放射線の研究の第一線で活躍していた。
N線発見のあとには物理の権威ある省の一つであるル・コント賞を受賞している。(ただし、N線発見の功績ではなく、「放射線への貢献を総合的にみて」という受賞理由だった。)選考委員会も、N線には懐疑的だったひとが一定数いたことがわかる。
これは、同時期に放射線の研究で活躍していたピエール・キュリーを差し置いての受賞であり、公明な科学者であることがわかる。
研究者としては晩節をけがした感はあるものの、ブロンロは晩年はひっそりと暮らせたそうなので、まだましな終わり方だったかもしれない。
上の実験でもわかる通り、手先が器用なことがわかる。かれはそれを生かしていたずらなどもしている。
ウッドのいたずらで有名なものは、あえて高い切符と安い切符(色が違う)をかって一等車両にのりこみ、車掌に安い切符を見せて、言い争いをしたあとで駅で高い切符を見せ、「この車掌は色盲だ」とか言ってからかう、といったもの。
爆発物にもたけており、塩素酸カリと硫黄をまいて遊んだりしていた。
濡れた地面をあるきながら金属ナトリウムを水たまりに投げ入れ、煙を立ち上らせて遊んでいた、などがある。
ウッドはN線の誤謬を解いたほかに、初期の電波望遠鏡の研究が研究者として有名である。