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仇討禁止令をめぐる歴史にについて解説する。
1873年2月、仇討禁止令が発布される。明治6年のことであり、明治にはいっても仇討ちがあったことがわかる。
仇討禁止令が出た理由は以下のように整理できる。
当時は文明開化の時期であり、言論ではなく刀による殺人で決着をつけるというのは野蛮な風習と見なされた。
法的にも、西洋の法典の理解が進むと、仇討ちは法的に正当防衛などとは見なせないと判断された。
外交的にも、西洋から遅れた国と見なされるのを防ぐため、仇討ちは禁止された。
仇討ち禁止令ののちもまだ仇討ちはあった。
日本最後の仇討ちとして有名である。
1888年、雑誌「日本人」の記者松岡は、炭鉱の社員の扱いのひどさを暴露した。朝野新聞記者でのちの首相となる犬養毅はこれを否定。
結果、松岡は犬養に決闘を申し込んだ。しかし犬養は決闘は野蛮人のすることと拒否。
また同じ時期には、俳句の解釈に間違いがおおいとして決闘が申し込まれることもあったようである。
1889年12月、決闘処罰に関する法律が発布され、ようやく果たし合いは姿を消した。